こんがりマシマロ丼

蕩けて胃もたれ

承認欲求から自己顕示欲へ、アーサーからジョーカーへ

10月4日公開、ジョーカー(原題:Joker)を鑑賞して参りました。

 

何がネタバレで何がネタバレじゃないか、もはやわからないので一応続きを読むシステムにします。

いくらネタバレを読んでも、ストーリーを把握しても、あの映画を観たことにはなりません。絶対になりません。…ひどい話ですがネタバレだけ読んどけばいいみたいな映画もありますからね、観たら観たでおもしろいんですけど。まあそういうのは置いておいて。

 

可能な限り鑑賞後に目を通していただけたらと思います。

 

 

*全ては個人の感想・考察です。

個人的にはこの映画、2種類の解釈ができると思うんです。

 

まず、一つ目の解釈から。

 

とても悲しく、心が痛む映画でした。

ホアキン・フェニックスの演技をこれでもかと堪能できて本当に素晴らしいんですけど、演技が素晴らしすぎて苦しいんです。

でもなにより、「自分の中の"ジョーカー"」に気付かされる感じもあって胃もたれとはまた違うんですけど何とも言えない気持ちにさせられます。それはまた後の方で。

 

病気(おそらくはトゥレット症候群?)のこともあって笑いたいわけじゃないのに笑ってしまう。その時の周りの冷たい目。奇怪なものを見る目。

アーサーが笑うときはいつだってアーサーが泣きたいときなのに。

 

自分の事情を伝えるためにカードまで作って。それでも奇怪なものを見る目で見られるのです。なんとも心が苦しい。

…自分の話になりますが、ナルコレプシーに罹患しておりまして。事情の説明をしてもやっぱり白けた目で見られるんですよね。なんだかその辺のいたたまれなさが思い出されてしまって…でも服薬していてもどうしようもないときはどうしようもなくて…閑話休題

 

「優しい青年アーサー」という表現をされる方が多いですが、優しいかはともかく「一生懸命に日々を生きようともがいている」だけだったんですよね、アーサーって。

外から見てわからないものを抱えて、懸命に日々を生きる。

自分の病気、認知症気味の母親、その辺の悪ガキ、気味悪がる同僚、そのひとつひとつは決して、生きていくうえで遭遇しないものではないと思う。誰にだって降りかかりえるものだ。厄災ってほどのものでもなくって、

「今日さあ仕事で最悪なことあったんだよ」

と、その一言を聞いて「へえそいつはついてないね」と返してくれる人がいれば別にどうってことない話である。

 

アーサーは孤独だ。いや、孤独になりに行こうとしていたのかもわからない。

自身の病気のこともあって、人に気味悪がられないように人を避けているような印象があった。同じアパートに住むソフィー(ドミノ役の時にも思ったけどザジー・ビーツめちゃくちゃかわいいよね、素敵)にだって。妄想は繰り広げていたけれど、そういう妄想って別に突飛なものではないと思うんですよね。気になるあの子とちょっといい感じに…なんて妄想、する人はするでしょう?

 

タイトルにも書いたんですけどこれって承認欲求の話だと思うんですよ。受け止めてもらえなかった欲求が爆発して自己顕示欲になって。そして(おそらく世間的には)最悪の結果になって。

 

アーサーを認めてあげられる人が一人でもいれば何か変わったんじゃないかと思わなくもない。実際ゲリーは許されて殺されなかったし、そういった人間関係は正常に築けたはずだと思うんです。(それはそうとギャギーとゲリー、少しかかってるのかな…)

まあ、一人いたところで、二人いたところで、最終的な結果は変わらなかったとは思います。満たされない承認欲求と孤独は人を壊す。壊れる。間違いなく。

 

承認欲求と自己顕示欲、ざっくりいうと「認められたいよ~」ってそこに座っているか「オウ認めろや」と立ち上がって誇示するかみたいな感じなんですよ。積極性の違いというか。

 

アーサーの承認欲求が自己顕示欲になったとき、ジョーカーが生まれたんだろうと思います。

きっとマレー・フランクリン・ショウの出演依頼が来た頃から。

おそらくバーでコメディをやったときはまだアーサーだったんです。まだ。まだ夢を捨てていなくて、必死にもがいていて、やっとつかめた夢のかけらを握りしめ喜んでいるアーサーだったんです。

 

嫌なことばかりの理不尽な日々にやっと少し光が差したんです。

そんな時家に帰って自身の出自を知るという見事なまでの転落。

 

よく「落ちるところまで落ちたら後は上がるだけ」みたいなこと言うじゃないですか。

あれは嘘で、落ちるときって本当にどこまでも落ちるんですよ。終わりがない。

 

自身の出自を知らされ、実父だと思って会いに行ったらぶん殴られ、さらに詳しく調べたら確かに実父ではなかったけどまた新たな出自の事実を知り…

 

孤独な人が壊れるには十分すぎると思うんです。献身的にお世話してきた母親が言っていたことが嘘だったなんて。大きな裏切りです。

 

"I hope my death will make more cents than my life,"

この人生以上に硬貨(高価)な死を

 

とても素敵なセリフであり字幕だったと思います。センスが爆発している。

すっかりジョーカーとなったアーサーはきっとあの後病院を抜け出していくんでしょう。すべてが彼にとっての喜劇となりますように。

 

---

 

もう一つの解釈ですが…どっちがいいとか悪いとかはなく、「こんな解釈があってもおいしいな」という感じのものです。

 

最後のカウンセリングのシーン、時間軸が気になるんですよね。あれが果たしてさっきの解釈の通り逮捕された後なのか、それとも冒頭のカウンセリングで言われていた「入院していた過去」のものなのか(ちょっとおぼろげですけど病院にいたみたいな話ありましたよね?)

 

前者であればすべては現実であると思えるし、きっと最後のジョーカーの足跡はカウンセラーの血だということで一つの喜劇。

 

後者であった場合。どちらにせよあの血の足跡はカウンセラーの血だと思うんですけどこの映画自体全てが虚構、でっち上げだったという可能性が残るんです。

ジョーカーが「ほうらかわいそうな人生だろう、ハッハッハ」とでも語り掛けてきそうじゃありませんか。すべては彼の作り話、私たちは勝手に同情し勝手に涙を流し、勝手に自分の中にある"ジョーカー"に気付き。

 

きっと多くのジョーカーファンの方が同じ行動をとったと思うのですが、帰宅してからダークナイトを観なおしました。

そしてその中ではっとさせられたジョーカーのセリフ。

 

"See, madness, as you know, is like gravity: all it takes is a little push."

狂気っていうのは重力みたいなもんだ。ちょっと押すだけで十分だ

 

まさにこう言ったことなんでしょう。

わたしたちはジョーカーに「ちょっと押された」んだとも考えられませんか?

狂気へと、ちょんとひと押しされた感じがしませんか?

 

これは完全に自分の考えですが、多少の狂気はスパイスだと思うんです。

ずっと真っ当な人間であり続けるなんてつまらなくないですか?

 

多少は狂気をはらんだ人間の方がすてきです。はらみすぎても…ダメなんですけど、たぶん。

 

今回この映画で気付かされた自分の中のジョーカー、目覚めさせてはいけないとは思いますけど時折揺り起こしてみても良いのかもしれない。

 

"Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot. "– Charlie Chaplin.

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ - チャールズ・チャップリン

 

自分の中のジョーカーは、きっと、近くで見る悲劇を遠くで見るお手伝いをしてくれる気がする。